サマーウォーズ 感想(1)

人の「応援・励まし」が心に響く映画は久しぶりだった。栄おばあちゃんの「応援・励まし」には、何度も涙ぐんでしまった。なぜ「応援・励まし」が心に響いたのか、理由は、細田監督にとっての(とは言い切れないが)、迷いのないストレートな理想的おばあちゃん像の具現化にあると思う。
この映画にとって、栄おばあちゃんは「神」のような存在だ。(稚拙な表現ですがほかに言葉が思い浮かびません。。)
90歳とは思えない行動力、礼節を弁え、理性的且つ道徳的な美しいおばあちゃんに慰められりゃ、誰でもコロッといってしまうと思う。
実際、陣内家の家族や関係各位、主人公含め、例外なくおばあちゃんの大ファンだし。


この映画では、ozのセキュリティを解いてしまうほどの天才数学少年と、格闘ゲームの世界チャンプ、ラブマシーンの開発者が同じ屋根の下にいるという無茶な設定を強引に押し通しているが、
おばあちゃんのカリスマ性のほうがはるかにぶっ飛んでいると思う。


アニメーションの魅力のひとつは、理想の具現化だと僕は思っている。理想は現実よりも鮮明で、まっすぐで美しいものだ。
アニメが狂信的に支持されるのと同時に拒絶されるのはここに原因があると思う。理想を信じること・信仰し続けることは難しい、現実と理想の埋めがたい溝を前にして、それでも理想をかざせる人間はそういない。
逆に言えば、だからこそアニメーションに需要があるのだろう。観客も作り手も、アニメに理想を請け負ってもらっているのだと思う。

ただ当然だけど、理想を掲げるだけでは人には響かない、説得力を持った演出が必要だ。アニメーションの場合(に限らないが)、説得力=リアリティ・現実感だと僕は思っている。
物語中盤、栄は心臓発作で亡くなる。
舞台設定やキャラクターの造形、演技でほどほど現実感を保ちながら、死という決定的な現実を打ち付けられたとき、栄は説得力のある理想へと昇華する。栄は現実になる。


僕はSWをおばあちゃん万歳映画としか言いようのない作品だと思う。おばあちゃんの表現に拘り過ぎたために構成のバランスが悪くなっているとさえ思う。おばあちゃんに惹かれない観客には、ちょっと小難しい娯楽アニメにしか見えないかも。


物語の軸となる「事件」のアイデアは各所で指摘されている通り、「ぼくらのウォーゲーム」ベースで間違いないと思う。細田監督は何故ウォーゲームをもう一度やろうと思ったのか、突っ込んだインタビュー記事があれば読んでみたい。

作画は前作の「時かけ」よりもクオリティが上がっている。陰影・質感を排したシルエットアニメである点は変わりないが、表現・演技の幅が広がっている。現実感のある日常的な演技・シルエットに対して、ディフォルメされた演技・表情・シルエットも違和感なく共存できている。
シルエットアニメは陰影を付けた一般的なセルアニメに比べて懐が深いのだと思う。


細田監督がここまでおばあちゃんに拘るのはちょっと気になるところ。以前ジブリ鈴木敏夫がラジオで、「あいつは自分の祖母に褒められたくて映画を作っている」みたいなことを言っていたのを思い出した。